三年半の長きに渡る少女たちの成長劇にも、遂に一つの幕が降りる時がやって来ました。
アイカツ!、最終話です。
第124話あたりから計画的に、最後にして最高潮の盛り上がりとして準備されてきたSLQCを無事終えて、ラストエピソードに何を出してくるかが気になっていましたが、展開されたのは非常に落ち着いた物語。
神崎美月を追いかけて世界の頂点に辿り着いた星宮いちごと、星宮いちごに憧れて迷い路を走り切った大空あかり、二人の主人公とアイカツ!という作品自体に敬意を捧げる、未来向きの今のお話でした。
これまでの物語と、その結果としての彼女たちの今、そして描かれることはないだろうこれからをしっかりと見据えた、豊かな最終話だったと思います。

今回のお話、構成的にはおもに3つの部分で構成されており、『これがアイカツ! なんだ』というシリーズの基本的な要素を、全て含んでいました。
なんでも弁当での穏やかなお祝いは『ステージを離れた日常』を、ルミナスとソレイユの合同ライブは『努力の成果であり自己表現であり、晴れの舞台でもあるステージ』を、そして最後のマラソンは『悪意が存在できないアイカツ!世界で、努力に説得力を持たせるための愉快な特訓』
今回展開した3つの物語は、それぞれがそれぞれを支えつつ、アイカツを成り立たせるためにはどれを欠くことも出来ない、印象的な物語を象徴していたように思います。
ラストエピソードとなる今回をこういう構成にしたのは、自分たちが作り上げてきたキャラクターだけではなく、彼女たちが自分の人生を表現するための構造それ自体に強い誇りと敬意を払い、自分たちが何を描いてきたのか再確認して終わろうという、スタッフの確かな意志を感じました。

第24話、第75話、第126話と、『オフタイム回』を積み重ねてきたことからも分かるように、アイカツは努力と真剣さに価値を置きつつ、それを支える日常の楽しさをないがしろにはしませんでした。
もはやアイドルの天井にまで駆け上がり、二時間という短い自由時間しか手に入らないあかりちゃんにも、当然の事ながら仕事以外の息抜きと喜びが必要です。
『食』を仲立ちにして人々が繋がる姿をしっかり描いてきたアイカツらしく、みんなでご飯を作り、一緒に食べて達成を祝福するシーンが今回挟まれたのは、様々な形で魅力的に描かれたアイカツの中の『息抜き』を代表し総括する意味合いが大きかったように思います。
しっかり食べて、ゆっくり休んで、みんなに支えてもらって初めて、大きな夢に羽ばたく健やかな自分を保てるという認識があればこそ、アイカツは極端な努力主義に陥ることなく、明るい努力の物語として走り切れた。
だからその終わりを飾る今回の物語に、みんなと過ごす『息抜き』のシーンがしっかり合ったことは、大きな意味があると僕は思うのです。

同時に息抜きは『頑張るための休息』であり、アイドルの真価は仕事で発揮されるというキャリア・メイキング的な視点もアイカツには強くあり、その象徴が"カレンダー・ガール"をメインキャラ六人で踊る、華やかなステージだったと思います。
自己表現であると同時に、不安やステージには上がらない職業人たちを巻き込んだ仕事でもあるステージは、日本有数の技術と表現力をつぎ込んだ3Dダンスの力も借りつつ、アイカツの明るく楽しい世界をしっかり表現してくれました。
歌と踊り以外にも、PV制作にドラマ撮影、ファッションモデルに殺陣に振り付けに漫才にトーク番組に、アイドルたちの活躍の場所は非常に幅広かったです。
少女たちがそれぞれ抱えた自分らしさを日々の努力の中で発見し、磨き上げ、より多くの人と『自分らしさ』を共有・拡大していく場所としての『仕事』を、アイカツは常に肯定し続けてきました。
その総決算である今回、あかりちゃんが『二時間しか自由時間がない』ほど忙しいのは、常に元気に明るくネガティブさを踏み越えていく少女たちのバイタリティを信じ続けたアイカツにとって、当然の帰結なのでしょう。

そんなステージでかかる曲が"カレンダー・ガール"なのは中々意味深で、一つには第151話ではソレイユの後塵を拝したルミナスもそれぞれの成長を果たし、見事なキャリアメイクの果てに『なんてことない毎日が かけがえないの』と振り返る『大人』になってしまった事実を強調すること。
もう一つは『ダッシュで坂道駆け上がっていこう!』と頑張り続ける少女の歌は、あのステージに経った彼女たちにとって過去の物語ではない、ということです。
三年半という長い時間が行き過ぎ、それはあまりにも愛おしいけども、そこで立ち止まるのではなく前に進み続ける生き方を祝福しよう。
そういうメッセージを埋め込むのに、この選曲はまさにベストだと思いました。

世界が閉じるその瞬間、あえて『私の熱いアイドル活動 始まります!』というメッセージを選んだことからも、そしてラスト1クールで常に『続く』物語の途中としてクライマックスを描き続けたことから考えても、あの六人ステージも、いちごとあかりが並び立った最後のステージも、彼女たちの物語の終わりでは、けしてない。
たとえこれまでの物語で描かれた『なんてことない毎日が トクベツに』なったとしても、『実践中の思考は 理屈なんかじゃない』と叫んで立ち止まらない季節が終わったとしても、『思い出は未来の中に』いつでもあるわけです。
過去を懐かしみ愛おしく振り返りつつも前に進み続けるこの曲がラストステージを飾るのは、第50話、第125話で見せたアイカツのアンセムとしての文脈を考慮にいれないとしても、必然的な選択だと思います。
初代EDであるこの曲はやはり、過去が合って存在する現在、思い出と約束が息づく未来という、前向きで豊かな時間認識を持っていたアイカツの世界を、非常に上手く表現しているのですから。


ラストの障害物マラソンは、大げさすぎだし唐突だして思わず笑ってしまうのですが、笑いの後に『ああ、こういう所に何度も行って、こういうトンチキな特訓沢山したな』という感慨が、どうしても生まれる。
他のアニメなら一瞬のネタで済まされるかもしれないマラソンや派手すぎる障害物、アイドルものなのに出てくる斧と崖は、たしかに笑いを生み出すコメディ要素でありながら、彼女たちがどれだけ真剣なのか僕達に伝えてくる、優れた舞台装置でもあった。
『アイカツ! アイカツ!』とテンポよく叫びながら、崖を登り走りこみを続けた少女たちを見ることで、『こいつら頭おかしいんと違うか……』と疑いつつも、彼女たちがアイドルカツドウに掛ける思いを気づけば受け取っているような、笑いの中にシリアスさを秘めた要素を、ちゃんと最後に描写してくれるのは、中々嬉しかったです。

これまでもそうだったように、たとえ世界の外側から見守る僕達には笑いでも、走るあかりちゃんといちごちゃんは真剣な表情を一瞬たりとも崩しません。
大真面目に走って、伐採して、崖を登る彼女たちは、他の作品でなら政府の激しい感情を表明してで真剣さを表すタイミングで、それを封じられ続けてきました。
非常に慎重かつ大胆に感情のバランスを整え、善意と努力だけが世界に存在するように調整されたアイカツ世界の中で、彼女たちのシリアスさを表現する大きな足場が、過剰なまでに肉体主義的な数々の特訓だったと、僕は考えています。
そういう意味で、遠藤の応援すら耳に入れず大真面目に走り続けるあかりちゃんが、『いちごを捕まえなさいね!』とエールを送った元『アイカツの天井』神崎美月の声にだけ微笑みを返すのは、主人公としてトップに辿り着くことを唯一許された女たちの共感が、少し見えた気がして、なかなか面白かったですね。

勿論あのマラソンには"START DASH SENSATION"をフルVer長回し(第50話の"カレンダー・ガール"、第101話の"SHINING LINE"を踏襲した演出であり、『追いかけっこ』という意味でも第101話との重ね合わせは非常に強いです)で使いつつ、これまで物語を彩ってくれた女の子達全てを画面に映す、感謝の表現でもあります。
色んな女の子がいて、みんな可愛くて、一生懸命で素敵だったこのアニメを締めくくるにおいて、主人公に軸を寄せつつしっかりコンパクトな見せ場を用意し、感慨にふけることを許してくれたのは、非常に有りがたかった。
みんな素敵だったけど、個人的にはやっぱおとめ率いるぽわプリと、いちごが拾い残った『男の力』を代表した瀬名くんが感慨深かったなぁ……。

"カレンダー・ガール"がそうであるように、"START DASH SENSATION"もまた、掛け替えのない過去を慈しみつつ、今を全力で駆け抜け未来にたどり着き、そこからまた駆けていこうという、非常にアイカツ的な曲です。
『今わたし達が 駆け抜ける毎日も 懐かしくなるのかな』という歌詞は三年半の年月を思えばあまりにも染みすぎるし、『頑張ったぶんだけ 遠くまで』来たあかりちゃんといちごちゃんが今まさに走っている姿と重ね合わされることで、その表現力は更に増していました。
かつて背中を追いかけるだけだったあかりちゃんがいちごちゃんと並び、追い越し、手を貸して高みに引っ張り上げる今回の(そしてこれまでの)物語は、二人がまるでかつてのマスカレイドのように対等なパートナーとなり『もっと違う空に会える トキメキ指差す彼方』に辿り着いたところで終わります。
そしてそこは『ここがスタートライン』として認識される場所だからこそ、『私の熱いアイドルカツドウ』は最終話を持って終わるのではなく、『始まります』と高く宣言される。
楽曲の強さに支えられたアイカツらしい、音楽の豊かさを活かした最終話だったと思います。


アイカツという物語の構成要素だけではなく、世界の中心として物語を牽引してきた二人の主人公、いちごとあかりに今回の話は捧げられています。
思い返してみれば、かつて何かと深夜の徘徊を装っていちごに接触し、試練とエールを送ってきた美月さんとは違って、いちごはメンターとしてあかりに接触することはあまりありませんでした。
無論第76話で始めてカメラに写った時から、あかりちゃんはいちごちゃんの大ファンであり、ポーザーであり、いちごは第97話で見せたようにあかりちゃんの人生の危機を救ってくれる指導者でもあるのですが、特に三年目に入り主役をバトンタッチした後は、あかりちゃんを積極的に導くことは手控えていたように思えます。
例外はユニットカップを開催して、出会いと成長を加速させた時くらいでしょうか。

この理由を考えると、やはりいちご世代と赤リジェネレーションが背負う物語の違い、もしくは違う物語を背負わせようという製作者の企図に行き着きます。
直感的に問題解決のための正解に辿り着き、必要な試練も基本的に順調に乗りこなしてきたいちごの物語は、一つには彼女自身の才覚が、もう一つは神崎美月という目標であり、物語の調整装置でもあった存在があって成り立つものでした。
まっすぐに憧れに向かって突き進みながら『自分らしさ』を最短距離で見つけ、発揮していくいちごの物語は多幸感と勢い、達成感に満ちたあまりにも心地よい物語であり、同時に幾ばくかの無視できない歪みを伴うものでした。(その最大のものである神崎美月の神化に関しては、僕は幾度も語ってきたので省略します)

あまりにも成功した主人公としてのいちごの影が長く伸びた結果、セイラという二代目主人公候補は(僕の個人的な見解としては)あまり自己の物語を語りきれずに終わってしまったし、『転載による順当な成長物語』という一つの立場を選びとるということは、どうしても掬いきれない何かを生み出すということでもあります。
ドリアカという『他者になりきれない他者』を再度用意するのではなく、凡人の中にある克服するべき自分という『自己の中の他者』を全てのキャラクターに用意することで、その克服を物語の基軸に据えること。
あおいというあまりにも完璧に自己を理解してくれる『他者』と心を通じ合わし同じ道を歩くのではなく、どう足掻いても理解しきれない距離感を維持したまま、孤立と旅立ちを肯定的に描くこと。
一人では高みに到達し得ない凡人を、二人三脚で高め合う『他者』としての男性・瀬名翼の存在。
あかりジェネレーションの物語の中には、星宮いちごの物語では語り得なかった様々な要素が盛り込まれ、いちご世代に負けずとも劣らない精度と鮮度でしっかりと語りきられました。

いちごがあかりに直接的に関わらず、その成長を見守り待ち続けるスタンスなのは、自分をみちいた美月のあまりに激情的であり動的でもある誘導とは、違う物語を描きたかったからではないか。
無論、『アイカツの天井』として孤独に君臨し、一少女としてその痛みに苛まれ、孤高でありながら誰よりも隣に立つ誰かを望んでいた美月と、あおいという半身を最初から手に入れていたいちごの魂の質の違いもあるでしょう。
それらはお互い排他するものではなく、形式を整えることで内容を充実させ、内実の表現として構成が変化していくような、相補的で相互侵犯的な関係にあると思います。
その一つの到達点として、映画で交わした『ここで待ってるから、追いついて』という約束を果たし、星宮いちごに憧れた一人のフアンから、星宮いちごと同じ場所に並び立つアイドルへと成長したあかりちゃんの姿があるのだと、僕は思います。
いちごと美月では描かれなかった(もしくはあえて描かなかった)、お互いが手を引っ張り合ってどこまでも高く登る、トップアイドルの一つの理想形。
それを二人の主人公が分け合うことで、(今後も劇世界内部では続く)物語の(あくまで一つの)達成とする描き方は、自分の物語を積み上げて追いつく側のあかりだけではなく、劇場版で美月から『アイカツの天井』を禅譲されながら、美月のようにアイカツを象徴する神(もしくは機械)とはならなかったいちごにとっても、立派な達成点だといえるでしょう。

(あかりジェネレーションの差異性を証明するためには、第104話・第105話・第113話・第132話・第141話・第147話・第169話・第177話と積み重ねられる、ひなきの物語を見るのが一番早いと思います。
賢さという美点が同時に自意識を縛り付ける枷でもある複雑さ、ポップな記号の奥に『期待に応える良い子』という呪いをかけられている彼女が如何にして自分らしさを見つけ、他者に支えられ、それでも自分を愛しきれないで迷ってきたか。
それはいちご世代の底抜けの明るさと楽しさ、前向きな世界肯定の意思(それこそがアイカツ最大の武器であることは、何回でも強調させてもらいます)ではすくい取りきれなかった、繊細で後ろ向きな、もう一つのアイカツらしさだと僕は思っています。
ひなきの物語を強調するのは七割五分くらいは身びいきが入っており、日の才覚故に欲望を持たずとも生きてこられたスミレが、欲しいものを見つけていく物語にしても、今回総括され再話された凡人大空あかりの大きな達成にしても、確実にいちご世代とは違った角度とペースで物語が蓄積され、展開されています。
成功した物語の再話ではなく、同じテーマを別の角度・別の速度で語り直そうとする挑戦的な意欲としても、そこで表現しきれたものの偉大さとしても、僕はあかりジェネレーションの物語は、いちご世代の物語と負けず劣らず、強い価値を持っていると思います。
そもそも2つの物語はお互い選びとった画角では切り取りきれない、一つのより大きなものの一側面であり、優劣をつけるものではないと思いますが)


というわけで、アイカツは終わりました。
ブログというのは便利なもので、過去の自分が何を見つけたのか、簡単に読み返すことが出来ます。

みくると観月が楽屋で語り合っていた、ソロのアイドルとしてしのぎを削る『いつか』は、おそらく来ません。 今のアイカツ!を照らすスポットライトは3月で灯りが落ちて、僕らの目に映る形では彼女たちの物語は見えなくなる。 でも、アイカツ!というあまりにも輝いた物語は多分、ここで止まることなく続き、走り続ける。 その姿勢こそが、これまで紡がれた輝く沢山の物語よりも何よりも、大切で綺麗なものなんだと思います。

アイカツ!:第173話『ダブルミラクル☆』感想 - イマワノキワ 

 

あの子たちは、たとえ僕達がその姿を捉えられなかったとしても、絶対に前に進み続け、輝き続けるという、信頼と希望があればこそ、どれだけ望んでもどうしようもなく必然的に終わってしまうことへのニヒリズムではなく、終わってもなお瞼の裏で光り輝く夢の続きを信じる言葉を、ちゃんと形にしたのでしょう。

アイカツ!:第173話『ダブルミラクル☆』感想 - イマワノキワ

 

僕はそれを、真っ直ぐに受け止めたい。 WMだけではなく、ソレイユも、ぽわプリも、トライスターも、ドリアカのみんなも、同じように愛情と敬意に満ちた目線で『これまで』を慈しみながら、自分なりの『此処から先』を目指してずっと走っていくのだと、心から信じたい。

アイカツ!:第173話『ダブルミラクル☆』感想 - イマワノキワ

  

ちょっと大袈裟なこの予感と決意は、今回の最終話含めた物語を見ればけして間違っていなかったし、この気持ちは今でも揺らいでいません。
スポットライトが彼女たちを照らすのを止めたとしても、彼女たちの物語は今まさに始まり、常に熱いアイドルカツドウが生まれ直していると、僕は自己暗示でも自己憐憫でもなく信じられる。
そういう信頼を置けるほどに、アイカツ!は素晴らしいアニメーションだったと思います。

三年半の沢山の少女たちの、輝いた青春を見守らせてくれたこのアニメには、たくさんのものが詰まっています。
まだまだ色々と語ることが残っているようにも感じますが、一旦筆を置きましょう。
そしてそんな豊かなアニメーションに言える言葉はやっぱり、これしかありません。
ありがとうございました、素晴らしいアニメでした。
アイカツ!がこの世にあってくれて、本当に良かったと、心の底から思います。
アイカツ!、本当にありがとう。